思い

思いを見い出す

思いは、ふわふわしてつかめない、空に浮かぶ雲のようだ。それでいて行動の芯となる、根を張った樹のようだ。そんな思いを言葉にできたなら、大切にしていることがわかりそうだ。それではどうすれば思いは見つかるのだろう。これまでをふりかえると何か見えるだろうか。それならまずは語源のことから考え始めてみよう。

語源を学ぶ

語源は言葉の成り立ちだ。言葉の成り立ちをたどると、言葉のそもそもを知れる。たどっていくと、歴史や文化をうかがいしれる。歴史や文化をとおして、当時の人々の考えかたや生きかたを想像できる。言葉はときに木のように、ときに波のように広がり積み重なり置き換わっていった。語源の解釈は、辞書によって違うことは度々ある。それでも複数の辞書を読んでいると、言葉ができるなんらかの流れはあるのだろう。これからもそのなんらかの流れにそって、言葉は変わっていくのだろう。

遠い未来の社会では、どのような言葉が使われているのだろう。すべての人がひとつの言葉を話しているのだろうか。すべての人が複数の言葉を話しているのだろうか。言葉は文字も音もないものとなって、それでも話せているのだろうか。そうしていつしか人は言葉を忘れるのだろうか。

過去の社会

社会には「関係性で成り立つ側面」があり、そして「人の数だけ希望」がある。人の希望には「空腹を満たしたい、眠りたい、健康に生きたい」といったものがある。希望があるから、仕事が生まれるように思える。仕事には「他者の希望を実現する側面」がある。人は、お互いの希望を実現し合って、今を築いた。希望が尽きない限り、希望は実現され続ける。実現され続ける限り、希望は生まれ続ける。

ここで「希望が実現される度合いが高い環境」のことを「便利」と呼んでみよう。そして、「希望が実現されない度合いが高い環境」のことを「不便」と呼んでみよう。現代の社会において、自分で食べる野菜を自分で育て、自分で着る服を自分で仕立て、自分で住む家を自分で建てる人はどれだけいるのか。

はるか昔の人々は、空腹を満たしたいなら、未開の森林へ果物を取りに行ったり狩りをしたりした。眠りたいなら、草や木を敷いて寝床をつくった。はるか昔の人々は、「生きることに欠かせない度合いが高い希望」を「自ら動いて実現する度合いが高い」環境だったのだろう。

言葉が発達するにつれて、人々はより細やかに協力できるようになっていった。一人で狩りをせず、集団で。一人で家を建てず、集団で。罠を張って獲物を待ちかまえたり、敵が襲ってきたら伝達し合い身を守ったりした。細やかに協力できるようになるほど、実現できる希望は大きくなっていく。稲作や農作をすることで、食糧を安定して得られるようにした。機織りや製鉄することで、複雑で長持ちするものをつくれるようにした。蒸気機関や印刷技術が発達することで、人が本来持つ能力を超える希望を実現できるようにした。

現在の社会、そして未来

そうして現代では、基本的な生活が保証される度合いが高まってきた。「生きることに欠かせない度合いが高い希望」が実現されるようになってきたのだ。その希望が実現されるようになると、人々の希望は「多様」で「強力」になっていく。

「多様な希望」には、ただ「空腹を満たしたい」というものだけでなく、「手早く済ませたい、栄養を万遍なく摂りたい、遠い地の食材を堪能したい」といったものがある。「強力な希望」には、「実現するために必要な能力が、人が元々持つ能力を超える希望」である。たとえば「一度に 1 万人が目的地へ素早く移動したい」希望であるとか、「歩くと 100 日かかる場所の出来事を、起きてすぐに知りたい」希望といったものである。

希望が「多様」で「強力」になるに従って、実現する方法にも変化が見られる。変化のひとつには、「自ら動いて実現する度合いが低くなってきている」ことである。機械化、プログラミング、人工知能によって、希望を実現する主体は人ですら無くなりつつある。このまま希望が実現され続けるならば、その先にはどんな希望があり、どんな実現があるのだろうか。

わからないことだらけの世界

この世界はどのように成り立っているのだろうか。ここでシステムを「複数の要素で成り立つもの」だと定義しよう。そう定義すると、世界には数え切れないほど多くのシステムの集まりがあると思える。系、仕組み、規則、関係、傾向。これらは複数の要素で成り立っている。システム同士は影響し合う。システムはシステムを生む。システムではないものはあるのだろうか。その問いの答えは決して人にはわからない。なぜなら、その存在を人が認識した時点で、それは人というシステムに組み込まれるからである。

これから人はどのように生きていくのだろう。希望を実現するためだったのだろうか、お金を得るためだったのだろうか。時代に合わせていたのだろうか、時代に流されていたのだろうか。

地球が太陽に飲み込まれるならば、それを回避できるのだろうか。天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突するのであれば、それを回避できるのだろうか。回避できた時、人はどんな姿をしているのだろうか。なにかしらの抽象的な概念になっているのだろうか。抽象的になることが進化なのだろうか。

二律背反、不確実性、原子の重ね合わせ状態。そういったものがあると知ると、この世界には「ゆらぎ」があると思える。どうなるか予測できない。そうであるけれど、そうではない。そうではないけれど、そうである。ゆらぎは、この世界には絶対など無いのだと言わんばかりだ。

「よさ」とは何か、「わるさ」とは何か。「ただしさ」とは何か、「間違い」とは何か。これらを決めるのは、いつも人の都合に過ぎない。それでも人として生きていくのだから、自分なりのよさ、わるさ、ただしさ、間違いを見い出さなければ、きっとなんとなく生きていくことになるのだろう。

この世界でたのしく生きる

そんな世界でわたしはどう生きたいのだろうか。

わたしは「たのしく学べる環境」を実現したい。たのしいと心地よい。たのしいと安らぐ。たのしいと乗り越えられる。

わたしがたのしいと感じる時は、特に学んでいる時だ。学びには「知り、感じ、考え、気づき、変わることの相互作用」の側面があると感じる。知ることで始まり、感じることで心が通じ、考えることで腑に落ち、気づくことできっかけとなり、変わることで次へ進む。

言葉とは何か。説明とは何か。心とは何か。物質とは何か。空間とは何か。時間とは何か。存在とは何か。要素とは何か。意味とは何か。そういったことを考えることは、時間を忘れさせてくれる。

わからないことだらけのこの世界で生きていると、気を抜けば、自分自身を見失ってしまうのではないかと感じる。それでも少しでも何かをわかった気になりたい。たのしさを感じていたい。たとえつかの間であったとしても。

わたしは言葉が好きだ。言葉を学ぶとたのしい。だから今日も言葉を調べて、自分にどう響くかを書き残す。書き残した言葉と向き合うと、自分自身と対話をしている感覚になる。対話をすると物語ができていく。物語をつむぐと心を満たしてくれる。だからこの思いを掲げよう。

生きることは学ぶこと。

せっかく学ぶなら、たのしく。

たのしく学ぶことは生きる活力となるから。

たのしく生きることにつながるから。